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札幌地方裁判所室蘭支部 昭和35年(わ)114号 判決

被告人 諏訪昭二

昭二・四・二四生 自動車運転者

主文

被告人を無罪とする。

理由

一、本件公訴事実は、

被告人は、室蘭市消防署消防士として同署の緊急自動車運転の業務に従事している者であるが、昭和三四年九月二四日午後五時五五分頃、同市母恋北町所在日本国有鉄道母恋駅前附近において交通事故があり、その被害者救護のため同署消防無線車(室八た三〇一七号)を運転し右事故現場に向う途中、同町七四番地先舖装道路左側を時速四〇粁で進行中、折柄進路前方を自己と同一の進行方向に進行中の乗合自動車を認め、これを追い越そうとしたのであるが、同所附近は、母恋駅前に近接し人車の交通繁しく二度の下り勾配で、当時小雨が降つて路面が湿潤し滑走する恐れがあり、同車の運転手席は自動車の左側にあつたので、斯る場合、自動車運転手としては、速度を減じ追越す進路前方の交通状況等につき細心の注意を払つて運転する等事故を未然に防止すべき業務上の注意があるに拘らず、僅かに緊急自動車で赤色灯を点滅しサイレンを吹鳴していたことから追越す進路前面を通行する人車等が、自己の車を避けるものと軽信し、そのまゝの速度で進路を中央にとり追越そうとしたところ、折柄進路前面右側から対進して来る小型自動車を認め、同車の前照灯の照明に眩惑され進路前面の見透しが困難となつたのに、そのまゝ追越を続け対進車を避けるため進路を左に切つたところ、自動車右側後方車輪が右前方に滑り出したので危険を感じ、進路を右に切つたが、自動車左側後車輪も左側前方に滑り出したので、運転の自由を失い、遂に自動車を室蘭方面に半回転させたまゝ、左側歩道に乗上げしめ、折柄、同所に佇立していた渡辺ハル外八名に自動車を突き当らせ、同人らに対し、別表記載のとおり加療一週間乃至二ヶ月を要する傷害を与えたものである

というにある。

二、先づ、被告人が、昭和二五年九月九日室蘭市消防署に消防手として勤務するようになり、昭和二八年八月一日大型第二種免許を得たので、爾来、同署の各種の消防車の運転に従事していたが、昭和三四年一月以降は、専ら、消防司令に使用する消防無線車の運転業務に従事していたことは、被告人の当公廷における供述によりこれを認めることができ、右消防無線車が、無線と放送の設備を有し、緊急自動車として廻転式赤色灯、電動手動併用のサイレンを備え付けてあるが、四二年型キヤリヤーの中古品で長さ四・二米、巾二・一余米、高さ一・九米、タイヤーは普通貨物自動車のそれより二吋太く各一本であつて、普通貨物自動車より長さにおいて短いのに高さが同じであるため重心が前部にかかり安定性に著しく欠け、しかも運転手席が車の左側にあるので追越の場合視野が狭く運転しにくい車であることは、牧田芳太郎の検察官に対する供述調書等によりこれを認めることができ、

本件事故現場附近が、室蘭市の中心地を東西に走る国道三六号線の一部であつて、人道と車道とは堰石により截然と区分され、車道は人道より一五糎低く、巾員一二・二米、路面はアスフアルト舖装で、中央に白色の太い中心線が引かれており、通称仏坂上より警察署前(約一六〇米)は平坦、同所より鈴蘭通入口附近(約二五〇米)までは、下り坂で一部傾斜三・五度の部分もあるが概ね一乃至二度であり、鈴蘭通入口より母恋駅前西角まで約五〇米は平坦であつて、更に同駅を中心として約六〇〇米の間は、いわゆる直線道路で見透しのよいことは、当裁判所の第一回検証調書により、これを認めることができる。

三、公訴事実によれば、本件事故の原因並びに被告人に過失責任のある事由として「被告人は―中略―同町七四番地先舖装道路左側を時速四〇粁で進行中、折柄、進路前方を自己と同一方向に進行中の乗合自動車を認め、これを追越そうとしたところ―中略―折柄進路前面右側から対進して来る小型四輪自動車を認め、同車の前照灯の照明に眩惑され進路前面の見透しが困難となつたのに、そのまゝ追越を続け、対進車を避けるため進路を左に大きく切つたゝめ、自動車右側後車輪が右前方に滑り出したので云々」爾後正常な運転ができなかつたことにあるとする。

しかし、当公廷における各証拠を仔細に吟味し、これを綜合すると、次のような事実を認めることができる。

(イ)  被告人は、昭和三四年九月二四日午後五時四八分頃室蘭市消防署において、西島司令補より、市内母恋駅前で自動車の交通事故(以下第一次事故と略称する)で負傷者があるから、無線車で出動するよう指令を受けた。このような場合同所備付の急報車のみが出動するのであるが、当時それが故障であつたので被告人運転の無線車が出動することになつた。被告人は右指令を受けるや、助手席に消防士長中山博、後部荷台に消防手奥村信義を同乗させ、右無線車で午後五時五〇分頃消防署を出発、赤色灯を点滅、電動によるサイレンを鳴らしながら、仏坂入口まで約一〇〇米を時速二〇粁で、同所より仏坂上まで約六〇〇米を時速三、四〇粁で、仏坂上より室蘭警察署まで約一六〇米を時速約五〇粁で進行した。途中被告人運転の無線車のサイレンを聞き、先行の自動車が三台位道路の左側に待避するのを認めた。

(ロ)  警察署前より母恋駅前までは約三〇〇米であるが、いわゆる直線道路で見透しは極めてよく、被告人は同署前で乗合自動車の先行するのを認めた。併し、同車は車道中心の白線を跨いで進行していたので順次速力を落し、三〇米位に接近した頃からは、前車と同じ三〇粁位で追従した。ところが、駅前より約一五〇米手前の地点(御幸橋通入口)にさしかゝつた頃、乗合自動車の運転手が、被告人運転の無線車が追従するのに気附き、左に向け徐行を始め、待避の態勢に入つたので、被告人は自車の進路を乗合自動車の後尾右側にとり、速力を三五乃至四〇粁に早め、車道の中心線に出て右自動車を半分ほど追越したとき、一〇〇米位前方に(駅前と鈴蘭通入口との中間)、小型四輪自動車(爾後単に対進車と称する)が、右側を中心線に寄つて来るのを認めた。

(ハ)  そこで被告人は、他に対進又は先行する車のないこと及び自車の進路を中心線より左に執るだけの距離的な余裕のあることを認め、(この頃は、前方の見透しは困難でなかつた。被告人の供述)進路を左に向けて進行したところ、対進車との距離が四〇米位に接近した頃、対進車は、突如高速度で、被告人の車の進行方向すなわち中心線より左側に大きく、ふくらむように、前照灯を開放したまゝで減光もせず入り込んだ。同所よりは上り勾配であつたゝめ、対進車の強烈な照明を浴び、前方の見透しが困難となつたばかりでなく、衝突の危険を感じたので、これを避けるため、ハンドルを左に切り減速しながら、ブレーキを軽く踏んだ。この間に対進車は被告人運転の無線車の右側を通り抜けて西方に逃げ去つた。

(ニ)  被告人運転の無線車は、前述のように安定性に著しく欠けていたのと道路が下り坂で、路面がアスフアルト舖装で、しかも小雨で濡れていたゝめ、ブレーキを踏んだことにより車の前部が支点となつて、右側後車輪が、右前方に滑り出したので、これを正常運転に戻すべく、ハンドルを右に切ると、こんどは、左側後車輪が左前方に滑り出した。そこで更に左に切ると右側後車輪が前よりも一層大きく右前方に滑り出し、同時に斜前方(被告人は、人道と「直角に」というが、司法警察員作成の第一回実況見分調書添付の写真の「スリツプ痕」によれば斜前方と認めるのが相当である。)歩道上に多数の人のいるのが見えたので危険を避けるためブレーキを強く踏んだ(全制動)が停止せず、また方向を右に換えようとしたが効果なく、そのまゝ左に回転し、人道との境の堰石に右側後車輪が衝突し、急停車による反動とタイヤーが大きく太く車体部が軽かつたゝめ、右堰石を乗り越え人道上で逆進し、これがため、同所(駅前より西方五〇米)で、乗合自動車を待合せ中の渡辺ハル外八名に対し、別表のとおり傷害を与えた。

以上の事実に反する証拠もあるが、それらは、内容において著しく条理又は経験則に反するか、もしくは、信ずべき被告人の当公廷特に第四回公判における供述(以下被告人の供述というときは、概ね、第四回公判における被告人の供述を指すものとす)に反するので採用しないことにした。

四、以上認定の事実によれば、本件事故の原因は、公訴事実にあるように、時速四〇粁で先行の乗合自動車を追越したことにあるのではなく、その后における対進車の被告人運転の無線車の進路への不意の侵入である。従つて、この点において公訴事実は事実と相違する。よつて叙上認定の事実を刑法の過失犯の概念に照して検討を加えることにする。

刑法上過失犯が成立するには、客観的要件として、注意義務懈怠の事実あることを要し、主観的要件として結果発生についての予見可能性のあることを要する。その何れかを欠けば、過失犯を構成しない。そして何をか注意義務といい、また、何をか予見可能性というかについては、ここでは省略する。

五、被告人が対進車を認めたのは、既に待避の態勢に在つた乗合自動車を半分ほど追越したとき(少くとも併進の状態に在つたとき)であつて、この時の両車の距離は約一〇〇米である。このことは被告人が司法警察員の実況見分にも立会い、その後に作成された司法警察員、検察官に対する供述調書中、この点に関する一致した供述によりこれを認めることができる。なお、この時の両車の位置は、対進車が車道の左側に大きく入り込むのを被告人が認めたときの両車の間隔が四〇米として、相互に三〇米位宛進行していることゝ、対進車が右のような措置に出たのは鈴蘭通入口の車道に第一次事故による自転車が放置されていて(司法警察員作成の第二回実況見分調書添付の図面参照)これを避けるため迂回したものと思われることなどにより、被告人の車の位置は、駅前西角より一二〇米位西方の車道中央であり、対進車の位置は、駅前と鈴蘭通入口との中間にある道南バス待合所前附近の車道右側(この点については被告人の供述とも一致する)である。

被告人は、右のように対進車の進行して来るのを認めるや、進路の前面に何らの障害のないことを確認し、対進車の進行に差支なきよう、中心線の左側に入るべく進路を右にとつた。(被告人の供述及び検察官に対する第二回供述調書)

以上の事実によれば、被告人が乗合自動車を追越したことについては、速力が追越しにかゝるときと同一であつたとしても、中心線より左側に入るだけの距離的の余裕があるから本件事故に対し、何らの原因となつていない。従つて右事実をもつて、本件事故に対する過失責任の事由とすることはできない。またそれより遡つて、被告人が乗合自動車の追越しを始めるに至るまでの経過は、既に述べたとおりであるが、その間には本件事故の原因となるべき事由は全くないので、従つて過失責任の問題を生ずる余地もない。よつて、乗合自動車追越後における事実について考察を加えることにする。

六、本件自動車事故の原因は、先にも認定したように、被告人運転の無線車と対進車が近接したとき、対進車が前照灯を開放したまゝ減光もせず、不意に高速度で進路を変え中心線を越えて左側にふくらむように入り込んだことにある。これがため、被告人は前照灯の強烈な照明に眩惑され、前方の見透しが困難となつたばかりでなく、衝突の危険を感じたので、これを避けるべく先づハンドルを左に切り同時にブレーキを軽く踏んだのであるが、道路が下り坂で、路面がアスフアルト舖装で、しかも小雨で濡れていたゝめ、車の右側後車輪が滑り出し、爾来正常な運転ができなくなつたことによることは、各証拠を通じて動かすことのできないところである。そして対進車が被告人運転の車の進行方向へ入り込むのを被告人が認めたときの両車の間隔は、被告人の検察官に対する供述調書、司法警察員作成の第二回実況見分調書添付の図面その他を綜合して四〇米位と認めるのが相当であつて、その頃被告人運転の車は、既に中心線より左側に入り得たものと思われる(証人森田和夫の証言等)。

そこで、右述べた範囲に被告人に本件事故についての過失責任となるべき事由があるかどうかについて判断するに、凡そ、過失犯における過失責任の有無の判断、特に注意義務の有無乃至範囲の判断は、個々具体的な事実を基礎として定むべきは言うを俟たない。

本件において事故現場の状況は既に述べたとおり、傾斜度一度乃至二度(極めて一部に三・五度の個所もある)の坂路であるが、いわゆる直線道路であつて、車道と人道とは堰石により截然と区別され、車道は人道よりも一五糎低いこと、車道の巾員は一二・二米で中央に白色の太い線が、引かれてある。このような道路において左側を通行する場合、自動車の運転手としては、前方の注視等により事故防止の義務あること勿論であるが、自車の進行方向に対し、衝突の危険ある近距離において、不意に高速度で侵入する場合にも、事故防止のため万全の策を講ずべき法律上の注意義務の存することは、普通の自動車運転手の場合にあつても、これを認めることはできない。けだし過失犯は、刑罰処分を伴なう反社会的な行為であつて、道義的に批難に値する行為でなければならないからである。殊に本件被告人の運転する無線車は、公共の緊急な用務に供せられる自動車であつて、このような車の運転手に対しては尚更である。緊急自動車の運転手に対し右のような高度の注意義務を課したのでは、それの持つ社会的使命は殆ど達成することができないことになる。却つて法律は緊急車に接近した車馬は、停止又は避譲すべき義務を課している(旧道交法第一〇条、第一六条)。然るに対進車は、被告人運転の車が緊急自動車であることを十分認識しながら、敢て前述のような措置に出たものであることは当裁判所の第二回検証調書その他により、極めて明白である。

被告人は、対進車の右不法な措置に対し、これより避譲するため、ハンドルを左に切りブレーキを軽く踏んだところ(急停車をすれば、場所的にむしろ危険であつた。)、右側後車輪が右前方に滑り出したので、その後正常な運転に戻すべく努力したのであるが、それが達せられず三項の(ニ)記載のような経過で本件事故を起すに至つたものであつて、以上によれば被告人には注意義務懈怠の事実がない。しかのみならず本件事故現場の人道は堰石により車道より直角に一五糎高くなつているのであるから、仮令自動車が路面で滑り回転したとしても堰石で停止すべきであつて、本件のように車輪が堰石に衝突しながら、これを乗り越えたことは、全く異例に属し、かゝる事態は一般的に予見し得ないところである。

要之、一件記録を精査するに、被告人は本件自動車を運転するに当つては終始用心深くなしたことを認めることができ、不注意な個所は見当らない。

以上の次第で本件公訴事実は、犯罪の証明不十分であるから、刑事訴訟法第三三六条により無罪とすべきである。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官 畔柳桑太郎)

(別表略)

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